諏訪の古代史を訪ねて(8)ミチャグチ神と洩矢の神

   

 古事記の神話やギリシャ神話を読むとギリシャの神々と日本の神々の共通点に気づくのだが、それは実に人間臭いということだ。泣いたり笑ったり、怒ったり、恋もすれば浮気もする、別れもするし再婚もする。悪戯が好きのひょうきん者でもある。裏切りもあれば陰謀もある。セックスは好きだし、人間ともセックスする。怒ると人を真っ二つに切ったり、戦いが好きなのに人間には平和を要求する。もうどうしようもなく性格が破綻しているのが、ギリシャと日本の神々の姿で一神教のスマートでモラリストの神様からは遠いところにある。私は、こんな人間臭い矛盾に満ちた神々がとても愛おしい。愛おしさゆえにいつかギリシャに行ってみたいと思っているし、こうして日本の古代史に明け暮れている。

 ところがミチャグチ神は、まだ絵として浮かんでこない。少なくとも日本神話の神々やギリシャ神話の神々のように人間の姿形として感じることはできない。たぶん、それはとても自然な感覚だと思う。自然崇拝と人間の姿をした神々の能力への崇拝の違いから起こるのだと思う。能力への崇拝は、権力への畏怖と言い換えることもできる。

 古事記は時の支配者の正統性を担保させる性格が強く表れている。ひとつには出自と血統の神格化による絶対化。もうひとつには彼らの支配過程を正当なものとするためのもの。つまり支配するだけの高い能力を持った人たちに対する畏敬。支配権力への畏敬。この二つを体現する人たちが神として描かれている。そこには人間臭さも含まれている。
 一方自然崇拝は、自然そのもの、自然を構成するあらゆるもの、これには現象も含まれ、そこに神が宿るという信仰だから、人の姿をした神様は描き難い。とくにミチャグチ神は、自然を構成するものに“憑依”することによって、初めて人間が感知できるものだから、さらに描き難い。諏訪のミチャグチ様は、石や岩や木に憑依する。あとは蛇。代表的なものが、“七石・七木”という神が顕著に降臨すると伝えられる石や樹木がある。七石は、御座石・御沓石・硯石・蛙石・小袋石・児玉石・亀石で、今も聖岩として崇敬されている。七木は、桜タタエ・檀タタエ・峯タタエ・榎タタエ・松ノ木タタエ・栃ノタタエ・柳タタエ・という七ヶ所の“タタエ”と呼ばれる聖地に生える聖木のことだ。
そしてなんといっても“御柱”。御柱は聖なる空間を囲むだけではない。御柱こそミチャグチ様が降臨される最高のもの。まさに縄文の御柱、諏訪の御柱だ。

 建御名方神的な存在が、諏訪に入ってからその末裔にミチャグチ様を降ろす儀式が始まったわけだが、文献的には平安時代とされている。実際はもっと前だと思う。時代はいずれにしても、この時から現人神・大祝が誕生する。これ以前の建御名方神は、諏訪では神ではなかった。

つまり建御名方神の末裔とされる諏訪氏は、ここ諏訪では神ではなく神になる資格を与えられたにすぎない”。そして“神として認定する儀式は、ミチャグチ神の主祭者である守矢神長官に委ねられている”

 

現に諏訪大社で行われる神事のほとんどは、建御名方神ではなくミチャグチ様を祭神としたものだ。そして祭祀の主体は守矢神長官にあった。守矢一族こそ縄文の太古からこの諏訪の民を率いてきた洩矢の神の末裔だ。それを諏訪の人たちはみんな知っている。口には出さなくとも、心の中にあるのは、ミチャグチ様と洩矢の神だ。


 

 

 また、それ以降大祝をミチャグチ様が憑依した現人神として認めているが、大祝は建御名方神が憑依したわけではない。諏訪氏は、建御名方神の末裔と伝えられているが、諏訪では神として崇められていない。諏訪氏から選ばれた子供に守矢神長官がミチャグチ様を降ろして初めて現人神になる。ここにミチャグジ様は描けなくても、人の姿をした洩矢の神を描くことができるようになる。
 
 

八千穂高原(北八ヶ岳)白駒池付近の原初の森

 諏訪湖を囲う太古の森は、人に生きるための恵みを与えるだけでなく、生命を生み出す場所だけでもなく、人の心に癒しや潤いを与える場所だけでもなかった。すべての森がそうであるように、森には生と死が含まれる。

 森は樹木が支配し、草花が従う
は樹木が支配し、草花が従う。樹木は陽の光を遮り陰鬱で不気味な表情を作る。その陰鬱の森の中で、まるで魔術をかけられたような悪と災いの森が広がる。鬱蒼と生い茂る樹木に監視され、時には敵視され、羊歯類や苔が足元を覆い隠し、行く先を躊躇させる。
 圧倒的に不規則な樹木の配置は、人を迷わせ、突然目にする谷は人を立ち止まらせる。あるいは足を掴み引きずり降ろす。風は樹木が吐き出した咽返るほど濃密な緑の匂いを運び、息を詰まらせ、泉は滾々と湧き出し湖沼を造り、人々を困惑させる。
  森の中に漂う空気は、神々しくもあり妖しくもあり、獲物を狙うような目つきで森に入った人々をとらえる。森は人々の糧とする動植物を生み循環を造る。あらゆる生命を宿らしめ、人の生が含まれる。
  一方で周期的にやってくる天がもたらす災い。大雨、大風、大雪。森に含まれる生は、これらの災いにより、崩壊し死が生まれる。死もまた森に含まれる。屍は新たな生命の芽吹きの源となり、森が育まれ同時に育む。死が生を育む。
 森が創りあげる生命の循環に人々は歓喜し感謝する。あるいは畏れる。神が誕生する。自然が創りあげるすべてに神が宿る。諏訪のミシャグチ信仰の始まり……
  
その森を果敢に駆ける一族がいた。木々の中を猪(しし)のように走り、断崖をカモシカのように降りる。あるいはまるで鷹のように、滑るように駆け上がる。一族は木々を友とし、湖沼の波を配下に置き、諏訪の海を自由に駆けた。陽の道を測り、月の満ち欠けに己の生命の起伏を占い、風と雲の怒りを知り、星を道標(みちしるべ)とした。
  一族は誰よりも森に含まれる豊饒な生を知り、誰よりも森に含まれる猛々しい死の恐怖を知っていた。そして森を敬い、森を畏れた。一族と同じ諏訪の海の畔で暮らす多くの人々は、聡明で勇敢な一族に従った。彼らは神が与える規範を求め、それに従うことで豊饒な恵みを享受し、神々がもたらす災いから逃れようとした。一族は彼らを従え、諏訪の海の畔に神を奉る神域を造った。
 神が宿る巨大な樅(もみ)を災いを畏れながらも切り倒し、山を曳き、谷を滑り、川と沼を渡った。神々を祀る聖域を囲うために神が宿る巨木を立てることは、神が望むもの。それをもってしても神が宿る木が災いを与えれば、それも神が望むもの。いかなる犠牲を払っても神域を神々が宿る巨木で作るべし。
巨木に憑依し、住まう神々は、時に人の生命と血を望んだ。巨木を伐る時に潰され、曳かれる時に谷に落とされ、あるいは川で溺れ、巨木に轢かれた。人々は命を捧げながら神々が憑依し宿る巨木を一族が見つけた。

諏訪大社、上社・前宮の一之御柱

 
 それが、諏訪大社4社を囲う“御柱”で、この一族が“洩矢一族”でやがて洩矢の神と崇められ、守矢神長官家として諏訪の精神世界と信仰を司ってきた。
 
 
 
 
(続く)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
提供はエネルギーゼロ住宅を推進するカーサソーレの(株)サンビックでした。

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