散歩気分で歴史探訪  中山道を西へ 高崎宿

 高崎の市街地に古い町並みはほとんど残っていない。かろうじて中山道の当時の面影を感じさせる赤坂町から常盤町を歩く。目を閉じた面影の中に当時の賑わいの風景を想像することもできるが、今では取り残された街のにも感じる。狭い路地のような中山道沿いに盛りを過ぎた商店が点在し、長屋のようの住宅がそれを結んでいる。僕が幼かった頃は、路線バスが民家の屋根すれすれに走っていたが、この街を通らなくなって久しい。しかし、今僕が歩いているクルマのすれ違いがかろうじてできる狭い道が、江戸時代に整備された正真正銘の中山道で、赤坂町こそ高崎市発祥の地で(平安時代から「赤坂の庄」と呼ばれていた)ここから街が、長い時間を経て東へ発展していった。

赤坂の坂道を登りきると、本町に出る。

 かつて高崎には、路面電車が走っていた。明治26年(1893年)から昭和28年(1953年)まで高崎駅からあら町交差点を田町に入り、本町を通る。本町1丁目とここ赤坂の角を北に曲り渋川に向かった。今は面影らしいものは感じられないが、高崎北駅へ向かうこの道の道路幅が広い。そのことは、年少の時から感じていた。それくらいかな。

高崎の路面電車は、東京、横浜、小田原、江の島などに続き、全国で9番目の市街地道路に起動する路面電車だったという。商都・高崎の賑わいぶりを感じないわけにはいかない。

商都・高崎は、中山道と三国街道、例幣使街道といった重要な街道がここ高崎で交わった地の利を抜きにしては語れず、人が行きかい、物資が行きかい、貨幣が行きかい、文化が行きかい、情報が行きかう移動の中継地であったため、どの時代をとおしても進化が促され、賑わいが生まれた。それは、現在でも続いている。

赤坂から城址公園(高崎公園)へ向かう。僕たちが若かった頃は、レモンの香りを感じさせる初々しい高校生のカップルのデートのメッカだった。噴水のある池があり、月の輪クマとニホンザルとやたらとやかましい小鳥たちがいる小さな動物コーナーがあった。

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そして、木漏れ日があり、木の影があり、暗闇があり、二人並んで観音山丘陵と烏川が、見渡せる手摺があった。

 僕たちは、緊張で胸が張りつめたまま、二人並んで手摺に手をかけ観音山丘陵をカラフルな会話もなく見つめていた。春には観音山丘陵に柔らかなピンク色の雲が軽やかに浮かんでいるかのように桜が咲き、秋の夕暮れにはキンモクセイの情緒的な匂いが僕たちを包んでいた。

そんな季節を城址公園は見続けていた。

 さて、高崎城だが、元は和田城といい、地名も和田と言われていた。

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話は、鎌倉に飛ぶが、鎌倉幕府を築いた頼朝の重鎮であった、有力御家人・和田氏が将軍家源氏三代が途絶えた後権力を握った得宗家(執権・北条家)に、和田の合戦(鎌倉・和田塚)で滅ぼされ、その末裔が箕輪・和田山(高崎市箕郷町和田山)に流れた。やがて箕輪に流れた和田氏が「赤坂の庄」へ移り築城する。和田城が生まれ、地名も赤坂の庄から和田となった。

現在も高崎には、下和田町、上和田町といった地名が残っているが、由来にはこうした流れがある。

 話は逸れるが、箕郷町が高崎市に合併されるとき、箕郷町の老人がこんなことを言っていた。

「本家の箕郷が、新宅の高崎に合併されるなんて情けねえこった」

地元の人は、今でも高崎の由来を知っているんですね。

 高崎と言われるようになったのは、家康が江戸に入り、徳川四天王の一人、箕輪城主の井伊直正が慶長3年(1598年)和田に入り、和田城を改築し、高崎城として改め高崎藩となった。関ケ原の合戦の2年前のことだ。高崎市の繁栄の基礎を築いたのは、井伊直正で、直正は転封先の彦根でも名君として今も語り継がれている。

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 高崎の市街地を抜けるとすぐに、烏川にかかった君が代橋を渡る。江戸時代は渡し船だったそうだが、明治になり常橋がかかり、それから何代目かの橋だと思う。橋を渡りすぐに旧中山道とバイパスに分かれ、旧中山道を進むとさらに二つに分かれる。このような三差路を追分という。(倉賀野宿にもあった)そこには道標の石標が建ち、左中山道、右草津道と掘られ、右は榛名山麓を抜け草津温泉まで行く草津道となる。

追分からしばらく赤坂町と同じように取り残された感があるか街並みが続く。豊岡宿だ街並みの途中には、大名や例幣使の休憩用施設、茶屋本陣跡が今も当時の面影を残す、格調高い建物があり、見学もできる。八坂神社の境内入口には、追分に立てられた石標よりもずっと立派な道標が建っていた。

(八坂神社の前に、以前老夫婦が営んでいた、小さな小さな焼きそば屋があった。たしかメニューは焼きそばとラーメンだけだったと思う。年少の頃から中学生にかけてよく父に連れられて行った。この焼きそばの味は、今でも僕の味の記憶領域に上の上として君臨している。社員の皆さんが、大好きな陳麻婆豆腐の四川もこの辺りですね)

 

 

                           続く

 


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