散歩気分で歴史探訪  中山道篇-倉賀野宿

 会社のブログに関して僕は戦犯で、それとなくシリーズ化したものが2度あり、2度とも途中挫折状態でかなり遠のいている。戻って書けないことはないけれど、新たな気持ちで再出発し、それもライトな感じで、長~く続けるのがいいのかなと思う。そう、天気の良い日に木漏れ日の中を仔犬を連れて散歩するように。

そんなことで、途中息切れすることなく、継続的に書けるように出だしのテーマは、街道沿いに残る宿場町シリーズ。今回は、県内の中山道の宿場町のいくつかを取り上げることにしました。

さて、再出発の始まり始まりです。

 

 倉賀野宿は、江戸から12番目の中山道の宿場町で江戸時代に整備され、利根川の支流、烏川に沿って形成されている。こうした地の利を生かし、烏川の水運を利用した河岸での物資の集積地として栄えた宿場です。今は、水量も川幅も貧弱で頼りなく、船などとても浮かばない川だけど、明治以降、上流に治水のためのコンクリート製の工作物や砂防ダムが生まれる前は、豊富な水量で、大量の集積物を下流の町に運ぶことができました。

 僕たちは、陸上交通網が整い、リアルな車社会しか記憶にないから意外かもしれないけど、古代より、山間部から平野部の物資の移動は、そのスピードも量も消費するエネルギーも陸路よりも川を利用したほうが、より早く、より大量に、より安かったわけです。

まあ、それだけ日本列島は、水に恵まれていたんですね。

 「まだ前書きなの?」と僕の文章が長すぎると呆れている方もいらっしゃいますので進めていきましょう。でも「散歩気分で」というのが、僕にとって、とても重要なことだから、好き勝手書かせてくださいませ(^^♪

 さて倉賀野宿の河岸に集まる物資は、上州各地からだけではなく、信州、越後からも牛馬で材木、炭、米穀、生糸、たばこなどが運ばれ、牛馬には江戸から倉賀野宿へ集まった藍、呉服、茶、塩魚、干物、小間物(化粧品)などを背負わせて国に帰って行きました。

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           木曽街道 倉賀野宿 烏川之図  画:渓斎栄

 文献によると1581年(永禄4年)に倉賀野宿の住人10名が舟による運搬営業を始め、舟問屋を開設し、問屋として営業をはじめたのは慶安年間(1648年~1652年)であったといい、この頃に舟利用の運搬が盛んになり、全盛期にはなんと倉賀野宿に76業者があったらしい。

 倉賀野宿は、街道の長さ約1.2㎞の間に、上町(かみちょう)、中町(なかちょう)、下町(しもちょう)があり、この三町が10日間ずつ交替で、人馬の継立(つぎたて)や助郷(すけごう)へのふれ出し、伝馬(でんま)を受け持ちました。中町の信号から西側のスーパー駐車場は、大名や公家が宿泊した「本陣跡」で、代々、河岸問屋の勅使河原家が世襲し、その先の河岸問屋の須賀家が「脇本陣」を務めました。

 

  また倉賀野は、京都から日光東へ向かう例幣使街道の起点で、京都から続く中山道は、ここで日光東照宮へ別去り(わかさり)、一方は江戸へ向かっている。現在でも追分と言われる三差路には、立派な石造の常夜塔が建ち当時の面影を伝えている。

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           改築された閻魔堂と常夜灯と道しるべ

           向かって右が中山道 左が例幣使街道

 

 この常夜灯の東隣には、閻魔堂という方形屋根と下屋が唐破風の古いお堂が建っていて(江戸時代には阿弥陀堂だったが、明治時代に建て替えられたとき、閻魔堂になったとか……)、つい最近立派に建て替えられました。古いものをそのまま残すのも歴史の継続に必要だけど、面影を残してその時代が産んだ技術で更新していくのも時には必要かな。ただ、傾向として木造建築は、古い時代の技術レベルのほうが高いのが気がかりではあるけれど。

 例幣使というのは、徳川家康没後、東照大権現として祀られた日光東照宮へ詣でる天皇家の勅使のことで、徳川幕府の支配が、天皇家に確実に及んでいたことを物語っていますね。

 宿場町はどこも同じように、参勤交代の時に、藩主や主な家臣団が宿泊する本陣、脇本陣が置かれ宿場の中心的な施設となっていて、たいていは跡地を示す石碑が、記念碑的に建っているだけで当時の面影は消え去っている。倉賀野も同じようなものだけど、脇本陣の須賀家は当時の姿を彷彿する間口の広い古い商家の建物として残され、今もそこで生活が営まれ、その風情は江戸時代の情緒そのもので、特に繊細な縦格子の古い戸が、間口いっぱいにはめこまれた意匠に視線を向けた人々は郷愁を感じるでしょう。

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            脇本陣・須賀家のたたずまい

 とても不思議なことだけど、こうした古い建物を見たとき、若い新しい世代は、郷愁を感じるほどの体験を持ち合わせているはずはないのに郷愁を感じるときがある。僕も若い頃、そんな場面によく出会った。これはたぶん、体験を超えたDNAの記憶がそうさせるのだと僕は思う。

もちろん科学的な裏付けはありませんが……

 

 僕みたいに倉賀野の歴史散策をしているのだろう、白い漆喰壁と対照的な、濃いグレイにくすんだ細い縦格子の店構えにカメラを向けファインダーを覘き、シャッターを切っている二人連れの若い女性がいる。たぶん僕が若い頃そうだったように、同じような郷愁を感じているのではないかと僕は想像する。できればそうであってほしいと僕は願う。

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            路地の黒板塀と漆喰の小壁と家紋入りの瓦

 路地に入ると宿場町の情緒はいっそう深まる。通りの商店街に比べ、昔の風景が残されている。人目につかないところは、手が加えられなかったのかもしれない。古い黒塀が続き、養蚕王国、上州独特の「櫓造り」の民家があちこちにある。蚕は、まさに天から授けられた虫であり、蚕様と言われるくらい大切に扱われた。なぜなら、養蚕は古代より変わることなく、農家にとって最大の換金産業だったからだ。

 当時の養蚕は、お母屋と別に小屋を設けて行うのではなく、家族が住む家の中で行われ、規模の大きな農家は、2階部分をそっくり養蚕室として使うのがごく一般的だった。蚕は、寒さを嫌うので暖房を要する。また空気の汚れも嫌う。必然的に換気が必要となり、屋根の棟に小さな家のかたちをした換気塔が設えられるようになった。

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              櫓造りの農家のたたずまい

 これが「櫓造り」と言われる民家の形態で、他にも養蚕を支えるための住まいの工夫が多く見られるのが、群馬県の民家の特徴で、ほぼ県内全域にわたり今も見ることができる。こうした大規模の養蚕農家の建物は、明治になり海外との貿易が盛んになり、生糸が輸出品第一位の座を長く占めていた証でもあり、明治以降、昭和30年代前半くらいまでの間に建てられたものが多いですね。群馬では宿場町でも一歩中に入るとそのような民家を見ることができるんです。

 

 そして宿場町の路地の奥にあるのは寺だ。倉賀野を含む、高崎を中心とした群馬県西部は、戦国時代越後の長尾影虎、甲斐の武田信玄が関東支配をめぐり争ったちょうど境界線上にあり、西上州を制した者が、関東への足がかりを手に入れることができる戦略上重要な地域でした。

 当時西上州を支配していたのは、関東管領、上杉家の執事筋にあたる長野氏で、その居城は、榛名山麓の箕輪に置かれ、『甲陽軍鑑』や『箕輪軍記』でも武田勢との激しい攻防が描かれている。その箕輪城の支城が、倉賀野を始め烏川沿いに置かれ、特に倉賀野城の役割は大きかったと思う。

 倉賀野城の倉賀野氏は治承年間(1170年頃)、秩父三郎高俊がこの地に居館を構え倉賀野氏を名乗って以来約400年間この地で勢力を振るっていましたが、西上州を狙う武田信玄と長尾景虎の争いに巻き込まれ――その対立の構図は、上杉・長野勢力が、厩橋(現在の前橋)まで進出していた長尾影虎に頼らざるをえず、武田勢と攻防を繰り広げたが、信州から碓氷峠を越え侵出してきた武田勢が、ことごとく支城を落とし、本城の箕輪城を落城し決着をつけた――この時、倉賀野十六騎いわれた勇将の一人、金井秀景が、武田方に与し、内部分裂が起こり、あえなく武田方の手に落ち、倉賀野城の歴史が閉じました。箕輪城の支城があった当時の城下町(根古谷や根小屋と言われた)の寺には、散っていった支城の侍たちの墓がある。ここ倉賀野では、永泉寺の苔むした墓石の一部がそうであろうといわれている。

ああ、、兵どもの夢の跡……かな。

 このような歴史もあり、西上州の文化は、信州的文化要素の濃い地域とも言える。諏訪神社が多数散在し、諏訪発祥の獅子舞が今でも舞われ、信州や甲州にゆかりの姓も多く残っています。

 やがて明治を迎え内陸の物資の運送は、川から陸に変換されました。それは、鉄道整備によるところが大きい。1884年(明治17年)高崎線が上野から高崎・前橋まで伸びました。背景には、貿易赤字解消と殖産興業の一大品目として生糸と絹織物の生産が高かった群馬県と日本最大の輸出港の横浜を繋ぐ必要があったからです。

 こうして鉄道の出現により、河川での物資運搬よりも、ずっと早く、ずっと大量に、ずっと合理的になり、河川運送の中継地・倉賀野宿の役割はいったんは終わりましたが、1987年(昭和62年)国鉄民営化により、倉賀野駅はJR東日本・JR貨物駅になり、キリンビール、日本たばこ産業、太平洋セメント、日本ケロッグ、岩谷産業らの高崎工場への専用線が設けられ、かつての倉賀野宿の現代版として栄えました。

 しかし大型専用トラック、コンテナ車などの車による運搬が主流となり、キリンビール高崎工場の移転、日本たばこ産業高崎工場の閉鎖により、再び輸送の中継地点としての役割が縮小しました。

こうして歴史は、その時々の現象とその影響によって塗り替えられていく。盛衰がある。

 

 僕は、歴史を訪ね、そこにあるリアルな風景を見つめ、歴史の面影を探し、遥か彼方の時代の風景を想像するのが好きです。こうした昔の風景を想像させる脳内エネルギーのひとつには、実体的な経験知から生まれるものだけではなく、途中にも書きましたが、DNAにかすかに残る記憶による部分もあるのではないかと、密かに思ったりしています。もちろん、遺伝学的、大脳生理学的な根拠など、ピコグラムも持ち合わせていませんが……。

                                 文責:朔月

 


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