木になる話 2

―ジョン・レノンは、日本に永住しようと思っていた!?-

   という話を最初に聞いたのは、あるレコード会社のディレクターを務め、当時才能のある若者発掘に沖縄を中心に飛び回っていた従姉のご主人からだ。 従姉夫婦は、子供が大学に入学すると、軽井沢の離山の麓にログハウスを建て、大宮のマンションから二人だけで移り住み、凛とした軽井沢の林の中で気ままな生活を始めた。

   ただ、ディレクターとしての仕事は、相変わらず多忙を極め、新幹線通勤と地方を飛び回る生活が続き、そんな中で束の間の休日に厳しい軽井沢の冬に頼りになる薪ストーブの薪割りや板塀造りや庭の植生を整え、生活の場を豊かにし、二人で自転車で軽井沢の風景の中を散策し、近くの洒落たレストランでのランチを楽しみ、自分たちのささやかなカラーを自分たちの人生の秋の風景に彩色していた。

 そんな従姉夫婦は、毎年5月の連休に僕を招いてくれた。その頃、軽井沢はようやく春の花の開花時期を迎え、コブシがミズナラの林の中で可憐に白い花を咲かせ、奥行きのある林の中からウグイスを呼び、爽やかな午後の木洩れ日の下で温かいコーヒーを飲みながら寛ぐ僕たちに、軽井沢の春を感じさせてくれる。

   「歴史を語るときifを用いてはいけないけれど、もしビートルズが存在しなかったら、レコーディング技術は、30年は遅れていただろう。そのくらいビートルズのスタジオでの活動は、斬新だったと思う」と彼は語る。もちろん僕は肯く。彼はリアルなビートルズ世代でビートルズに強い影響を受けながら、楽曲作りの道に入り、解散直後にビートルズの洗礼を受けた、いわばビートルズ第二世代の一人とも言える僕にビートルズの足跡を語った。

     「76年に法廷闘争の末、アメリカの永住権を勝ち取ったジョン・レノンは、その年の夏から79年まで、夏の一時期をヨーコとショーン君と軽井沢で過ごした」 そう、もちろん後で知ったことだが、ビートルズとその曲に圧倒的な影響を受けた僕たちの中では、まだリアルなビートルズに期待していたが、ジョン・レノンの死で、ジョン・レノンもビートルズも“永遠”という、けしてふれることができない世界に逝ってしまった直前の4年間、ジョン・レノン一家は、この軽井沢で夏を過ごしていた。

    従姉夫婦のログハウスから、歩いて5分ほどのところに、3人がよく立ち寄ったカフェ“離山房”がある。従姉夫婦も、客が少ない季節外れの午後によく立ち寄るという。 従姉は、自転車で“フランス・ベーカリー”までパンを買いに行く。 ゴムサンダルに膝の抜けたジーンズを穿いて、よれよれのTシャツ姿のジョンが、幼いショーン君を自転車の後ろに乗せて、毎朝のようにパンを買いに行ったあのパン屋だ。 フランス・ベーカリーのパンは、イギリスのパン並にパサパサして、そのままでは少し食べにくいが、冷凍してから焼いて食べると、もっちりした味わいの中にしっかりとした芳醇さを感じると従姉は言う。

雲場池

 「ジョン・レノンが、日本に永住したいと思っていた。という話は、逝ってしまうまでの4年間の夏を、軽井沢で過ごした、という単純な理由だけではないらしい。その理由は、どうもリバプールの植生と軽井沢の植生にあるらしい。つまりジョンが幼い頃過ごした、リバプールの郊外の林と軽井沢の林が似ている。リバプール郊外のオーク(日本ではミズナラ)の林が、ジョンの記憶の中の風景に広り、ジョンはその風景に穏やかな親しみと温もりの記憶を感じていた。そして、小野家の別荘がある軽井沢の林を初めて訪れたとき、ジョンの記憶の中の風景に、軽井沢のミズナラ林の風景が作用してしまった。そんな話を聞いたことがある」と彼は、ミズナラの木洩れ日の穏やかな幾何学模様の中で言った。 僕はその話に惹かれる。とても惹かれる。

                               続く……                              文責・伊集院君


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